どこが好きか聞かれたら、顔だって答えるよ。
何に影響されたのか金曜の夜に突然、夫が斉藤和義みたいなことを言い出した。
(ちなみにこれは惚気ではない)
私は自分の顔がそんなに好きではなかった。
ぱっちり二重に生まれたかったし、口だってもっと大きい方がよかった。眉毛も何もしなくてもいい感じに生えててほしかったし、おでこが四角いのも気に入らない。輪郭ももっとシュッとしていたかったし、儚げな色白になりたかった。
そんな私が高校生になる頃には毎日メイクをするようになった。当然校則では禁止されていたけれど、茶髪よりは寛大に見過ごしてもらえた。
アルバイト代をデパコスに注ぎ込んでは、まつ毛をどれだけ盛れるかに心血を注いだ。
修学旅行の時には、すっぴんを見られたくなくて、誰よりも早く起きてカーテンの裏に隠れてメイクをした。
カーテンを開けたら同志がすでに何層目かのマスカラを滑らせていたのはいい思い出だ。
そんな青春時代を経て、大人になった私は、ぱっちり二重の色白の夫と結婚した。
(ちなみに私の好きな顔のタイプではない。考えてみれば、自分が一重なのは嫌なくせに、好きな俳優は大抵一重なのだ。高橋一生も、綾野剛も、大澤たかおも。)
そんな夫は付き合っていた当初から、やたらと可愛い可愛いと言ってくれた。
パーツが小さくて、目が細くて、可愛いね、と。
喧嘩売ってるのかこいつは、と当初はむっとしていたのだけれど、どうやらそれは本心らしい。
自分が、欠点だ、大したことない、と思っているものも、他の人から見たら手に入らない魅力的なものかもしれない。
誰かを羨み続けるよりも、自分の持っているものを大切にすることを始めたい。
神様は私たちそれぞれにベストなものしか与えないという。
もし、私が理想通りのぱっちり二重だったとしたら、今の生活はないのだろう。
もし、さらっとした薄い顔でなかったとしたら、こんなにメイクを楽しめなかっただろう。
それに、顔というのは生まれ持ったものであり、作られていくものだ。表情は内面の表れに他ならない。メイクや愛想笑いのように外からつけたせるものもあれば、それではどうにもごまかせない内側から滲み出るものがある。
大人になって働きかけるべきは、メイク技術の向上だけではないのだ。
自分を好きになることは時になかなか難しいけれど、自分を好きになれない人が、誰かを本当に大切にすることなどできないから。
誰かになるのではなく、誰かのためでもなく、自分のために、自分が自分のベストを尽くそう。
それがいつか、誰かのためにもなるから。